古今亭志ん生の落語

昭和の名人と呼ばれた五代目古今亭志ん生は、滑稽話を得意にしていましたが、人情噺や陰惨な噺を滑稽に演じるという独自のスタイルで人気を博しました。なかでも「黄金餅」や「藁人形」「もう半分」といった怪談話をよく演じていました。

参考までに「もう半分」のストーリーを紹介しましょう。

①「もう半分」

江戸の永代橋の脇で、小さな注ぎ酒屋を営む夫婦がいました。この店に、行商の老人が毎日通ってきては、「(一合桝に)半分だけお願いします」といって、五酌だけ酒を頼み、それを飲み終わると「もう半分」といって、また五酌注文するという、少し変わった飲み方をしていました。老人曰く、「一合の酒を半分ずつ飲んだほうが得をしたように感じる」というのです。

ある日、老人が店に風呂敷包みを置き忘れて帰ってしまいました。店主が中身を確かめると、50両もの大金が入っていました。悪心をおこした店主夫婦は、金を自分たちのものにしようと、口裏を合わせることにします。

あわてて店に風呂敷包みを取りに戻った老人は、風呂敷包みの中身を「娘が吉原に身売りをしてつくった金だ」と明かし、「返してほしい」と頼み込みますが、店主夫婦は知らぬ存ぜぬの態度を貫きます。

老人はあきらめて店を出ると、そのまま大川に身投げしてしまいました。

しばらくのちに、酒屋夫婦に子どもが生まれました。生まれた赤ん坊の髪は白髪で、あの老人そっくりの顔をしていました。店主の妻はショックで寝込み、そのまま死んでしまいました。店主は乳母を雇って子どもの世話をさせますが、乳母は理由もいわずに、次々と辞めてしまいます。

不審に思った店主は、ある晩、赤ん坊が寝ている部屋をのぞいてみることにしました。すると、丑三つ時に赤ん坊がすっくと立ちあがり、枕もとの行灯(あんどん)の油さしから油を茶碗に注ぐと、うまそうに飲み干してしまいました。店主は「おのれ、じじい。迷ったか」と叫ぶと、赤ん坊は茶碗を差し出し、「もう半分」。

②後味の悪さ

落語はほかの芸能とは異なり、かならずしも勧善懲悪の結末を用意していません。落語は庶民の娯楽であると同時に、さまざまな示唆に富んでいます。人間の本能的な愚かさ(立川談志がいうところの『業の肯定』)を表現するのです。

また、観客に「語りの先」を想像させる形をとって、物語の結末を語らない手法をとることも多いです。「もう半分」では、店主に仏罰(あるいは神罰)が下されるという点では勧善懲悪のストーリーですが、それによって観客の溜飲が下がるかといえば一概にそうとはいえません。異形の赤ん坊と店主のその後について、さまざまな想像を呼び覚まさせるからです。

③実に救いようのない噺「藁人形」

もっと救いようのない噺もあります。「藁人形」という演目を紹介しましょう。

托鉢僧の西念は、「お熊」という女郎に金をだまし取られます。西念には大金を隠し持っているという噂があり、西念から金をだまし取れるかどうか、女郎仲間が賭けをしていたのです。30両の大金を取られた西念は、女を呪い殺す目的で、七日七晩、油の煮え立つ鍋で藁人形を煮る呪術を使うのですが、七日目の呪いの成就の目前に甥の甚吉に見つかってしまいます。

甚吉が「おじさん、なんで藁人形を鍋で煮るんだい。藁人形は五寸釘が相場だ」というと、西念は「あの女は、もとは『ぬか屋』の娘だ。釘は効かねえ」。

西念は大金を女にだまし取られただけという、救いようのない結末となりました。もっとも、かりに七日間の呪術の結果、女を呪い殺せたとしても、西念にはその先に明るい未来があるわけではありません。金はとっくに「お熊」のイロ(愛人)の手に渡り、賭博で使い果たしています。

古今亭志ん生の落語

「藁人形」のテーマは「安易に他人を信じてはいけない」という警句かもしれません。しかし、志ん生の芸は警句を上回ります。「釘は効かねえ」というサゲを聞いて、観客は爆笑します。西念の失敗に対して、同情ではなく滑稽を呼び起こすのです。このように、人の不幸を笑いに変えてしまう志ん生の芸の力量には、目を見張るべきものがあります。